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神のみ子の誕生 ヨハネによる福音書3章16~21節 2024/12/22

神のみ子の誕生 ヨハネによる福音書3章16~21節 2024/12/22 赤塚バプテスト教会クリスマス礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―ヨハネによる福音書3章16~21節
(はじめに)
 クリスマスおめでとうございます。ところで、なぜ、クリスマスがおめでたいのでしょうか?クリスマスというと、私にとっては、楽しいイメージ、嬉しいイメージがあります。みんなでケーキを食べたり、プレゼントを交換したり、遊んだり・・・。子供の時から、毎年、何度も何度も、教会でクリスマスを迎えました。でも、クリスマスとは何だろう?クリスマスの意味を考えるようになったのは、それからずいぶん後になってからのことでした。クリスマスとは何でしょうか?そのことは、この聖書に書いてあるのです。今日は、クリスマスの礼拝です。クリスマスの意味を聖書の言葉からご一緒に聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 お読みした聖書の言葉は、聖書の中でもよく知られている言葉の一つです。もう一度、読んでみます。ヨハネによる福音書3章16節です。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありました。「独り子」とあります。それは、神さまの大切な子どもということです。神さまは、ご自分の大切な子どもをお与えになったというのです。では誰にお与えになったのでしょう。ここには、「世を愛された」ということが書いてありました。「世」というのは、この世の中に、この世界に生きる私たち一人一人のことです。神さまは、私たち一人一人を愛しておられるので、ご自分の大切な子どもであるイエス・キリストを私たちにお与えになった、というのです。
 続いて、このようなことが書かれていました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神さまの独り子であるイエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため、とありました。永遠の命とは何でしょうか?
永遠の命ということが言われていましたが、ここで命ということについて考えてみたいと思います。私たちは今、生きています。命があるから生きているわけです。しかし、私たちは知っています。私たちの命は限られている。いつまでも生きているわけではない。いつかは死を迎えることになる。そのことを考えたら、寂しくなったり、悲しくなったりします。愛するあの人といつかは別れる時が来る。でも、寂しい、悲しい、と考えるだけでなく、だからこそ、この限られた命を、人生を精一杯生きていこう。そう考えるのではないでしょうか。
 ところが、聖書には、不思議なことが書いてありました。永遠の命。永遠の命について、別の聖書個所で、イエスさまはこのように語っておられます(ヨハネ11章25、26節)。
11:25 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 永遠の命について、ここでは「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われています。死んでも生きる、決して死ぬことはない。ますます不思議なことのように思えます。
 不思議に思えるこの言葉ですが、「死んでも生きる」、この言葉から教えられることは、死んだらすべてが終わりではない、ということです。私たちが、たとえ、この地上の人生を終えたとしても、その先があるということです。それでは、その命、永遠の命は、どうしたら得られるのか?というと、イエスさまは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と語っておられます。「わたしを信じる者」、つまり、イエスさまを信じる者は、死んでも生きる、決して死ぬことはない。なぜ、そう言えるのかというと、「わたしは復活であり、命である」とあります。イエスさまが復活であり、命である。イエスさまが私たちを死から命へと復活させてくださる。イエスさまを信じることによって、私たちは死から命へ、永遠の命をいただくことができる、というのです。イエスさまはこの話をなさった後、このようなことを尋ねておられます。「このことを信じるか」。私たちはどうでしょうか?このことを信じるか、とお尋ねになるイエスさまに対して、どう答えるでしょうか。この時、イエスさまの話を聞いていたマルタは、こう答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」(ヨハネ11章27節)。私たちも、マルタのように「私は信じております」と答えたいと思います。
 今日の聖書の言葉に戻ります。ヨハネによる福音書3章17節をお読みします。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 裁きということと救いということが言われていました。裁きと救い、私たちは、もちろん、裁きではなく、救いを求めます。裁かれたいと思う人は誰もいないと思います。ここには、神さまは、私たちを裁くためでなく、救うために、イエスさまを遣わされた、と書いてあります。
 私たちを救うため、とありますから、これは、私たちにとって、とてもありがたい、嬉しいことですが、それでは、救いとは、何でしょうか?ある人は、病気で苦しんでいて、病から救われたい、と願います。またある人は、生活の大変さからの救いを願います。ある人は、仕事や学校での人間関係の困難さからの救いを願います。それでは、聖書が言う救いとは、どういう救いなのでしょうか?私たちが願っているあのことやこのことの救いと同じことなのでしょうか?
 18節以下の聖書の言葉をお読みします。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
 「光」と「闇」ということが言われています。「真理を行う者は光の方に来る」とか、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」ということも言われています。ここで「光」というのは、イエスさまのことです。「闇」というのは、イエスさまから離れていることです。そして、ここで語られていることは何かというと、私たちには救いが必要だ、ということです。
 先ほど、私たちには、いろいろな救いがあるということをお話ししました。病からの救い、生活の大変さからの救い、人間関係の困難さからの救い。そういう私たちの人生における様々な苦しみから、誰もが救われたいと願います。教会にも、様々な苦しみについて救ってほしいと願う方々が訪ねて来られたり、連絡をして来られたりします。私は、話を聞いて、その人その人に必要な神さまからの助けがあるように、守りがあるようにと祈ります。しかし、お読みした聖書の言葉には、私たち誰もが救われなければならない本当に大事なことがあるということが語られているのです。その大事なこととは何でしょうか。実は、その大事なこととは、私たちがどんなに頭をひねって考えても、自分では思いつかないことなのです。
 先ほど、光は、イエスさまのことだと言いました。太陽の光でも、キャンドルの光でもありません。ここで言われている光とは、イエスさまのこと、神さまの光のことです。神さまの光に照らされたら、私たちのすべてのことが明るみに出される、すべてが見えてくるのです。ヨハネによる福音書1章9節には、その光のことがこのように書かれています。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
「まことの光」とあり、また、その光は「すべての人を照らす」とありました。まことの光、神さまの光は、すべての人を照らす、とありました。「私は、自分のことはすべて分かっている!」そのように言われる方があるかもしれません。しかし、どうでしょうか?本当にそのように言うことができるでしょうか。むしろ、自分のことなのに、自分自身のことを本当には分かっていない、見えていない、そういうことだらけなのではないでしょうか。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」。この言葉が教えていること、それは、まことの光である神さまの光に照らされたら、私たちの本当の姿が分かるということです。私たちの心の中のことが見えてくるということです。そして、その時、私たちは、誰もが救われなければならない者であることを知らされるのです。

(むすび)
 今日は、クリスマスおめでとうございます、と私たちはなぜ、言うのだろうか?という話から始まりました。それは、イエスさまが私たちのところに来てくださったからです。イエスさまがおいでになって、神さまの光が私たちを照らす時、私たちは、自分が一人の罪人であり、罪から救われなければならない者であることを知らされるのです。
今日お読みした聖書の中に、闇という言葉が出ていました。闇とは、神さまから離れていることであり、聖書が示す罪のことです。闇の中に留まること、罪に支配されることを今日の聖書では、「滅び」と言っていました。しかし、聖書は、神さまが、私たちが一人も滅びないように、つまり、闇の中に留まらないように、罪に支配されないように、私たちを救ってくださる方、イエス・キリストを与えてくださった、と語っているのです。この方を受け入れるなら、私たちは罪から救われ、永遠の命に生きることができるというのです。
 クリスマス、それは、神さまが私たちを罪から救うために、その大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださった出来事です。イエス・キリストは、今から二千年ほど前に、ベツレヘムでお生まれになりました。しかし、クリスマスとは、二千年前の話に留まりません。今、私たちがこの方をお迎えするなら、私たちの心に、私たちの人生にイエスさまはお生まれになるのです。そして、罪から救われて、イエスさまと一緒に新しい命に、永遠の命に生きる者とされるのです。クリスマスおめでとうございます。神さまがお送りくださった救い主イエス・キリストをお迎えしましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたは、私たちにご自分の大切なみ子イエス・キリストをお送りくださいました。
それは、私たちが罪から救われ、永遠の命に生きるためでした。しかし、私たちは自分が罪人であることを自分で知ることはできません。神さまの光に照らされる時、そこで初めて、自分の罪に気づかされ、自分が救われなければならない者であることを知らされます。
 今年もクリスマスを迎えました。どうか、一人でも多くの方がイエス・キリストを自分の心に、人生にお迎えして、クリスマスの恵みを体験することができますように導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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